なぜ、エッセイ?
この問いから、メールを始めます。最近、長めのエッセイを読むようになりました。一方で、短文ポストやSEOに最適化したブログ記事は読まなくなった。
なぜなら、エッセイは書き手の内面が最も素に近い状態で出ている気がするからです。鋭い主張でバズを狙う短文ポストや、キーワードから検索上位を狙うブログと違って思惑も少ない。
いざエッセイを書くと、普段、いかに物を考えていないかを痛感します。
僕は主に、Paul GrahamやDan Koeのエッセイを読んできました。必ずしも興味がある内容ばかりじゃないんですが、何かヒントがある気がするんです。物事の見方を変えてくれそうな気配。
現代は、短文ポストやショート動画によって、反射的に反応することが増えましたよね。反射的な反応には、ほぼ思考が存在しません。世の中に良い影響を与えているわけでもない。
今、僕がエッセイをおすすめしている理由は、今後、あなたの思考の価値が高まるからです。
もうAIで無限に情報が出せるので、情報そのものの価値は下がっていく。でも、あなたの個人的な視点、ストーリー、価値観がのった情報には価値があります。それらを抽出するには、反射的な行動を抑えて、じっくり思考して書く時間が必要です。
これは言うのは簡単ですが、実行するのは難しい。なぜなら、あまりに気を散らす誘惑が多いし、さらに僕らは結論ありきの文章に慣れすぎているからです。ブログもゴールから逆算して書きますよね? 確かに、逆算のアプローチは書き手も読者も混乱しない利点があります。しかし、どこか予定調和になる。エッセイのように、思考を深掘りした先の新たな発見にも繋がりにくい。
あなたは、すでにAIで文章を書いているかもしれません。全てを任せていなくても、AIで考えを整理することはあるでしょう。僕もあります。これは便利な一方で、油断すると思考力を失うリスクがあります。
というのも、AIの文章は最初から整っているからです。一見、何の問題もないように見える。さて、ここで何が起きるでしょうか? 依存しすぎると、AIの文章から共感できる部分を探し始めます。そして、まるで自分も最初から同じことを考えていたかのように錯覚する。それは考えているのではなく、ただ共感できる部分を選んでいるに過ぎない。
もし、あなたが自分の思考と格闘してエッセイを書き上げ、新しい発見を掘り出すことに成功したら、きっと「どうやって見つけたの?」と訊いてくる人もいるでしょう。でも、たぶん、それはあなたにしか掘り出せない。なぜなら、あなた自身の中から掘り出したものだからです。
僕はなぜ、エッセイに惹かれ始めたのか疑問でした。
短文ポストもSEOの記事も、同じ文章です。しかし、このメールを書きながら気付いたのは、エッセイが持つ物事の見方を変えてくれそうな「気配」です。おそらくその気配が滲んでくるのは、書き手の思惑が控えめであり、思考が純粋な形で出てくるからでしょう。この気配の存在は、今回僕が見つけた発見なのかもしれません。
かつてPaul Grahamは、こう言いました。
There's a kind of thinking that can only be done by writing.
(書くことによってしかできない種類の思考がある。)