「たった一人でも応援してくれる人がいれば頑張れる」は本音なのか?

毎日ブログを書いていると、

あらかじめ書きたいことがある日もあれば、ない日もあって、後者の場合、自分が過去に書いた文章や、スマホのメモ帳をのぞいてみたりする。

書くべきネタが転がっていないかどうか、チェックするためだ。

ついさっき、スマホのメモの中に、

“たった一人でも……は本音か?”

という一文を見つけた。

先日、ふと気になってメモに残しておいた思考の断片で、少しばかり語っておいた方が良い内容だと感じたので、今日のブログのテーマにすることにした。

ブログのタイトルにある通り、

『たった一人でも応援してくれる人がいれば頑張れる』は本音なのか?

について。

このテーマを通して僕が伝えたいことは、一段階、テーマを抽象化した場所にある。

「普段、何気なく口にしがちな言葉が、キレイゴトになっていないだろうか?」

ということ。

少しばかり、この部分を問い直してみたい。

継続的にこうして文章を書いていると、決して嘘というわけではないが、なんとなく本質的な部分を突き詰めないまま、フワッと、表現を置きにいってしまうことがある。

例えば似たような事例を挙げると、

不倫や誹謗中傷について書くとした場合、多くの場合、出てくる意見はどれも似たようなものになりがちだと思っている。

本来、100人居れば、100通りの細かなニュアンスや、ものの見方がある。

にも関わらず、

「不倫はダメだ」
「誹謗中傷は悪だ!」

という似た結論に行き着く。

なぜダメなのか、どのように悪なのかが語られることはあまりない。

厳密には人によって細かなニュアンスは違うんだけど、ほとんど同じだからという理由で、“同じだとしてしまう”ことがあるということだ。

数学で言うところの「近似(きんじ)」の考え方に近い。

近似(きんじ、英: approximation)とは、数学や物理学において、複雑な対象の解析を容易にするため、細部を無視して、対象を単純化する行為、またはその方法。

引用元:Wikipedia

僕自身、一応、文章を書く人間のひとりとして、このあたりは気を付けなきゃいけないなと思っている。

随分、話がフラフラしてしまったが、

ここで今日のテーマに戻ると、

『たった一人でも応援してくれる人がいれば頑張れる』という言葉も、近似されたものだと思っているということだ。

一度は耳にしたことがあるような言葉だし、ファンを大切にするカッコイイ精神が見て取れるが、本当に本当に、本当なのだろうか……?とも思う。

そこに、キレイゴトは存在していないのか?

と。

本当に応援してくれる人が一人だけだとして、自分の時間を捧げ続けることができるのか?

と。

正直、これは自分自身にも問うている。

基本的にポジショントークは好きじゃないので、悪意を持ってブログに嘘を書くことはないが、とはいえ、キレイゴトっぽいことを書いたことはたぶんある。

これは、自分への戒めでもあるのだ。

ありがたいことに、毎日1人以上の人がこのブログを読んでくれている。

本当に感謝すべきことだし、嬉しいなぁと思っている。

だが、

僕も小さい人間だから、時々、「もう少し読んでほしいなぁ〜」と思うこともある。

生意気かもしれないが、その感情がゼロかと言えば嘘になってしまう。

本当に、今後、ずっと一人しか読んでくれないとしたら、その人のために永遠に自分の時間を捧げて書き続けられるのか?

今日のテーマは、

その問いにイエスと答えていることを意味している。

僕は、胸を張ってイエスとは言えない。

そう、

みんな、自分の本音を巧妙に近似しながら、世間と折り合いをつけつつ今日を生きているのだ。

できることはそう多くないかもしれないけど、

少なくとも何か言葉を発する時は、

「これってキレイゴトじゃないだろうか……?」

と、自分自身に問いかけてみることは必要なのかもしれない。

なかなか、そんな完璧な人間はいないことに気づく。

もちろん、僕自身も含めてであることは言うまでもない。