死ぬなよ

帰宅後に一時間ばかり仮眠して、目を覚ますと関西に住む親友からLINEが来ていた。「今日のブログ面白かった。死ぬなよ」と。一瞬寝ぼけていたこともあり「今日のブログ?」と思ったが、すぐに「断食」のことだと思い至った。そう、昨日は断食三日目だった。

直後、三時間ほど脚本を書き、断食から丸三日経過したのでコンビニでおにぎりとパンを購入。ホットコーヒーも買って三日ぶりの食事を味わった。が、空腹を満たしてもそれ程の感動は無かった。ただ「空腹を満たした」という事実があるだけで、途中何度か「食べたいな」と思った食欲は何だったのか、なんて考えた。その後は海外ドラマを英語で一時間観て、日課である日記を書き、本を読んで寝袋に横になった。ウトウトし始めた頃に、夢を見た。サッカーボールにジェットエンジン付きのロケット花火を装着し、超音速でコンクリートの壁に向かって発射するというもの。意味は全くわからないが、普段の思考ではそのような発想は出てこないので、とりあえず起きてすぐに夢日記にその旨を書いた。

時刻はすでに朝の四時頃だったと記憶している。ジェットエンジン付きのロケット花火に興奮したのかなんだか眠れず、このまま起きてようか、明日の(木曜日の)ブログを書こうかと考え始めたが、悩んでいる内に再び眠気がやってきた。寝袋の上で親友から届いたLINEに想いを馳せた。褒められた前半部分ではなく、後半部分の「死ぬなよ」という言葉について。眠りにつくまでの数分間に考えた内容について以下に記す。そう、今日はここからが本題なのだ。

親友から届いた「死ぬなよ」という言葉。これは断食で死ぬなよという意味ではない。いつからだろうか、お互い連絡を取り合い、最後別れの挨拶は決まってこの言葉「死ぬなよ」である。たぶん十年近くお互いに「死ぬなよ」を言い合っている。なんだか記憶は曖昧だが、元々はマンガか何かの主人公のセリフで「死ぬんじゃねぇぞ」というのがあり、それを大阪弁風にして(それが「死ぬなよ」である)、言い出したのが始まりだったような気がする。正確には覚えていないが、たぶん僕から言い始めた。以来、基本的には別れの挨拶はこれである。

元々、言い始めた頃は、おどけてというか、軽いニュアンスで使っていた。勿論、ふざけてではない。言葉の重み的なものは最低限理解しているつもりなので、ふざけてではなく、むしろ親しみを込めて使っていた。親友以外にはたぶん使ったことがない。僕と親友の間で交わされる特別な挨拶だと個人的には認識している。年数が経つにつれて自分の中で感情が少しずつ変化してきていることに気がついた。「またな!」ぐらいのノリで使っていた「死ぬなよ」が、今では言葉通り「死ぬなよ」と本気で思って使っている。このように書くと何だか重く捉えられてしまうかもしれないが、心の底から「死ぬなよ」と思っているのである。

僕自身、今日も朝に起きて、仕事に来て、休み時間にこうしてブログを書いているが、このいつも通りの日常が明日も約束されているという保証はどこにもない。勿論、だからと言って死ぬイメージは出来ないけれど、当たり前だと感じている「生きている」という事実が、実は当たり前なんかではなく、なんの保証も証明も出来ない状態の上、成立している(もしくは継続している)と言わざるを得ない。普段の生活の中で、このようなことを意識的に考える機会はあまりないかもしれない。僕の場合、物語を考えたりするプロセスで登場人物の背景を考える際に、過去のことはもちろん、未来のことも考え、その結果、嫌でも「死」という現実と向き合わざるを得ない。あくまで紙の上の話かもしれないけれど、それでも悲しくなったり、時々、怖くなったりする。

今、地球上に生きている人はいつか必ず全員死ぬ。この事実からは逃れられないし、僕も御多分に漏れずその内の一人。問題は、それがいつなのかわからないことだ。わかったらわかったで怖いかもしれないが、わからないと死ぬという事実を忘れそうになる。上手くイメージが出来ないと言い換えた方が良いかもしれない。とにかく「死」を実感として持ちにくい。そうなってくると、毎日の大切さを忘れがちになる。「また今度でいいや」を繰り返し続けることになる。そのまた今度が存在しているなんて保証はない。

親友とも昔ほどは頻繁に会えなくなった。年に一回ぐらいだろうか。時折、「死ぬまでに、あと何回会えるのだろうか?」と考える。感傷的になっているのかもしれないが、ある意味で誰しも保証されていない世界を生きてる。だからこそ、情緒的なものが美しく見えたりする。限りがあるからだ。三十路をこえた今、「死ぬなよ」を単なる挨拶では使えなくなった。「本当に死ぬなよ」と思っている。本当にそう思って使っている。随分、長々と書いてしまったような気がする。まぁそういうことよ。お互いなるべく長生きしましょうぜ、親友よ。死ぬなよ。