東京に住む友人Aの転勤が決まり、随分と遠くに行ってしまうので「引越す前に飲もう」ということなり会いに行ってきた。自宅にお邪魔するとAの奥さん、息子くん、奥さんのお母さん、奥さんの妹さんも居て、夕食をご馳走になった。「痩せてるからたくさん食べて」と言われ、お言葉に甘えさせていただくことに。こんがり焼けた餃子が美味しかった。ありがとうございました。

たしかに痩せた。東京に出てきた約2年前と比べると7キロ程減ったんじゃないかなと思う。昔から太らない。食べても食べてもすぐに痩せてしまう。実家に暮らしていた頃より格段に食べる量が減ったので痩せて当然といえば当然だ。一時期、「もう少しガッシリしていた方が良いんじゃないか」と思い、無理してたくさん食べていた時もある。東京に出る直前ぐらいだろうか。身長に見合った適正体重なるものに近付こうとした。けれど結局は落ち着くべき体重に落ち着いた。ちょっぴり痩せすぎているかもしれないが、これがぼくの自然体。何も飾らずそのままで良いんじゃないかと思い始めた。

22時頃にAの家を後にして、Aと二人、近くのお店で飲むことにした。元々は徒歩5分程の別の場所にあったお店なのだが、数年前に駅前へと場所が移った。初めて行ったのは25、26歳の頃。もう7年近くが経つ。当時、ほとんど飲めないぼくをAがよく誘ってくれて、少しずつ飲めるようになった。その頃、ぼくはAの家に居候をさせてもらっていたのだ。19歳で出会い、お互い第一印象は最悪で「絶対に友達にならない」と思ったはずなのに、気がつけばいつの間にやら仲良くなった。とはいえ、意見や価値観の対立は日常茶飯事。決して仲が悪いわけではなくて、思ったことはあまり隠さず言い合う間柄なのだ。思えば、友達の中で最も意見を戦わせているのがAだ。これは間違いない。だが、これまでずっとお世話になってきた。先日も結局のところご馳走になった。振り返ってみても、Aと飲む時にぼくがお金を出した記憶はほとんどない。いつも「出世払いで」と言われるが、このままいけば出世した瞬間に破産するのは確実である。

店に着くと、カウンターに座り、まずは金柑のジントニックで乾杯。Aが東京を離れてしまう前に色々と話そうと思っていたのに、いざ話そうとすると上手く言葉が出てこない。寂しさや緊張ではなく、単純に話しておきたい、あるいは話しておかなくてはならない話がありすぎるのだろう。何だか、らしくないなと思った。

「最近ウイスキーは? 飲んでないの?」

ぼくの戸惑いをまるで見透かしたかのように店長のKさんが声を掛けてくる。「飲んでないですね」。そう答えると同時に、久しぶりに何か飲んでみようと思った。「飲みやすいものを」と伝えて「GLENDRONAC」を出してもらう。20代、Aの家に居候していた頃から、時々一人でもお店に行くようになり、夜な夜なウイスキーを飲み始めた。ぼくはお酒の知識をほとんど持ち合わせていないので、メニューを見ても正直よくわからない。なので、その時の気分をKさんに伝えて選んでもらったり、作ってもらうことも多い。例えば「人生最期の日に飲むお酒をお願いします」といった感じである。Kさんにイメージをお伝えして、Kさんがそれを具現化する。そのプロセスを「言葉」を用いて行う。個人的にはその瞬間がとても心地良く、なおかつ感動に似た喜びがある。ウイスキーを飲むといつも思い出すのは、居候をしていた時期と、その時お世話になった人々、そして若かりし日の父親である。

お酒が回り始め、次第にAとの会話にも熱が帯びてくる。根っこの部分では似たもの同士かもしれないが表面的な部分ではまったく性格が違う、と、ぼくは個人的に思っている。遠慮なく思った事をズバッと言われる。その瞬間、ぼくも熱くはなるが、基本的にAに対してムカつくことはない。むしろ、Aが放り込んでくるその言葉の内側にある潜在的な「何か」を抉り出したくなる。最近で言えば、「ぼくには配慮が足りない」と言われる。配慮である。配慮。「そんなことないよ」と思う部分もあるし「たしかにそうかも」と思う部分もある。完全に肯定もしないし否定もしない。ぼくは白か黒かに振り切る、あるいは振り切れる人間ではない。グレーを愛しているし、そもそも「人は皆んなグレーだ」と思っている。Aとの議論の中でぼくが知りたいのは、ぼくに配慮があるかどうかではなくて、そもそも皆んなが思う「配慮」とはなんなのかということと、各個人が持つ「配慮の定義」からほんの少し外れた「配慮に近い部分」を、皆んなはどのように表現、あるいは認識、定義するのかということ。途中、日頃からお世話になっている人達も加わって他のテーマも含め、熱く語り互いの意見を主張し合った。そんな場に身を置くと、自分がヌルくなってきたなと感じずにはいられない。主張することを躊躇ったり、夢を語らなく(語れなく)なったりしている自分がそこにいる。主張することは、自分と相手の輪郭を確かめる行為だと思っている。なるべく自分の思っていることをそのままの形で伝えれるようになりたい。ある意味、どうでも良い人なら何も言わない。正直、主張することは疲れるし体力的にも精神的にも疲弊する。けれど、大切な人達だからこそ、ぼくという存在を感じてほしい。何をどう思われてもなるべく素のままぶつかりたい。お店には店長のKさんを含め、人生の先輩もいらっしゃったのに随分偉そうな生意気な物言いをしてしまったかもしれない。ぼくに対して熱く意見を主張していただけること、ぶつかっていただけること、そして大きな心でぼくの話を聴いていただけること、本当に感謝しています。

そしてA、いつもありがとう。息子と同じ名前のウイスキーで乾杯出来て良かった。また。