自分のために


日曜日の21時59分。スマホを手にブログを書き始めた。

部屋が寒い。が、先日廊下で季節外れのGを見かけたので怖くて暖房がつけられない。虫が出てパニックに陥るぐらいなら凍えた方がマシだ。そんな精神で生きてる。

さて、昨日のブログに引き続き、今日も写真は無い。撮るべきものも見つからないし、撮りたいという気持ちも起こらない。手を抜いているように感じるかもしれないが、わざわざブログに載せるためだけに撮りたくもない写真を撮るのは何だか馬鹿げてる。そんな気がしてきた。もちろん明日にはまた写真を撮って、ガッツリとブログ冒頭に組み込むかもしれないが、「言ってることがコロコロ変わってるじゃん!」などとガーガー怒らないでいただきたい。勝手にするし、読みたい人だけが読んでくれればそれでいい。読みたくない人はさっさと画面を消して別なことをすればいい。

ちなみに、読者からガーガー怒られたワケではない。ただ、なんとなく言ってみたくなった。それだけのことだ。

ときどき思う。「このブログは一体誰の(何の)ために書いているのか?」と。読んでくれている人のため?あるいは自分のため?

まだブログを書き始めた頃は、「このブログは杉本達哉を知ってもらうためのチラシのようなものなので」と口にしていた。確かに。間違いではない。だが、突き詰めて考えていけば、違うような気もする。僕の内側から出てきた『僕の言葉』ではない。僕の心情、一面を『チラシ』という言葉がカバーしていたに過ぎず、おまけに借物の言葉、つまり僕ではない誰かが発していた表現を拝借したのだ。自分の言葉って何なんだ?最近はそれがよくわからない。つまり迷っているのだろう。

僕のブログは、単純に思ったこと、感じたことなんかを文字で書いているに過ぎない。時に写真を間に挟んでは、「わかりやすいだろうか?いや、無くてもいいんじゃないか」なんてことを一人でやることはあっても、基本は文字。言葉だ。言葉。

言葉を自由自在に操れるようになりたい。けれど全然うまく書くことができない。大袈裟でもなくポーズでもなく、それなりに読み返しては、その都度、自己嫌悪に陥る。内容の良し悪しにではなく、単に自分の文章に絶望する。絶望と表現するのは、少しばかり芝居がかっている気もするが、でもそれに近い感情であることは間違いない。1年以上、ほとんど欠かすことなく書き続けてきているが、「おっ!上達してんじゃん!」という実感はほとんど無い。

こんなことを延々と考えているところをみると、きっとこのブログは読者を想定して書いているんだろうと思う。自分以外の誰か、それが誰なのかは今はわからないけれど、誰かを意識して書いている。

もう少し自分のために書いてもいいのかもしれない。自由気ままに、好き勝手に、表現、言葉遣いなんか全く無視をして。まあ、言うのは簡単だけどそれはそれで結構難しい。自分のために書くなら日記でいいし、別にわざわざブログという形で外に向かって発信する必要もない。でも、僕はブログという表現方法を選んだし、どれだけ「このブログは自分のために書く!!」と言い張ってみても、そこには『誰かに読んでほしい』という思いが根底にあるんだろうと思う。

今日はなるべく自分のために書いた。今後も自分のために書くという意識を忘れないようにしたい。あまり読者を想定しすぎると、カッコつけで見栄っ張りな部分が多くあるので、変に飾ったり、自分自身を守ったりしてしまう。それはそれでツマラナイだろうし、たぶん書いている僕が一番つまらなくなってくるに違いない。

話をまとめると、僕のブログは読者を想定して書いているけど、今後は『自分のために書く』という意識の比重を増やしていく、ということ。

「いや、どうでもええわ!」って思ったでしょ?

同感。

おやすみ。