真面目な杉本を襲う「スキャンダル」の気配

毎日文章を書いていてつくづく感じるのは、「書き出しが難しい」ということで、ちょっぴり真面目な内容を書こうと思ってる時なんかは更に難易度が上がる。

自然と力が入っているんだろう。
あくまで個人的な見解である。

ちなみに、つい先程、noteを更新した。
年齢のせいだろうか、日曜日から随分と早起きである。

日頃、「100円よこせー!」と、お金をぶん取りながら書いているのだが、今日は無料で読んでもらえるようにしているので、時間がある人は読んでみて欲しい。
ブログとは違ってちょっぴり真面目なテイストで書いている。
ちなみにサクッと読める。

今日のnote:本に「表紙」を付ける心理について

さて。

連日こうしてナンジャカンジャ文章を書いていると、徐々にではあるが「コメント」なるものをいただけるようになる。

応援や、辛辣なものなど様々である。
ぶっちゃけて言えば、内容に限らず(例え耳の痛い意見でも)かなり嬉しい。

「継続」する中でもっとも辛いのは無関心であり、沈黙だ。

人間というのは、つくづく自意識過剰な生き物でもある。
それはブログを書き始めて痛感することになった。

書き始める前は、「こんなこと書いて嫌われたらどうしよう」や、しいては「炎上したらどうしよう」などといらぬ心配をする。

大丈夫。
炎上などそう簡単にするものではないし(飲食店なんかでふざけるバカとは別ね!)、そもそも炎上の前に圧倒的な「静寂」が待っている。

要するに誰にも相手にされない時間だ。
正直、これが一番こたえる。

けれど、冷静な頭で考えるとそんなのは当たり前で、そもそも皆んなが自分に興味を持っている前提で考えていること自体がおこがましいのである。
興味を持ってもらうためにはキチンと振り向いてもらうための努力をしなくちゃいけない。
恋愛と同じだ。

僕にとって、その努力の最低ラインが「毎日更新すること」で、仮に1日でもサボると取り返すのに結構時間がかかる。
それは技術的な部分ではなく、精神的な部分においてだ。
人間は自意識過剰であると同時に、ラクをしたい存在でもあるのだ。
もりろん……「もちろん」と書こうとして「もりろん」と書いてしまった。
一筆書きの辛いところだ。
このまま修正なしで書き進めるが、仕切り直すと、

もちろん、僕も同様である。

昨日、小学校の同級生からコメントをもらった。
もう何年も会っていないけど、気にかけてくれているところが有難い。

ちなみに、何より嬉しかったのは、「正直なコメント」をくれたところだ。

僕の解釈で書かせていただくと、

「なるほど!と思うこともあれば、ん?と共感できない部分もある。んでもってクスッと笑うところもある……」

と、こんな感じである。

自分のモノサシを押し付けるわけでもなく、否定するわけでもない。
ただそのフラットな意見をくれたことが嬉しかった。
ありがとう。
改めて「しっかり頑張らなきゃ!」と思える。

なるべく全ての読者を喜ばせたいという気持ちはあるが、それは不可能だ。
いろんな考え方、価値観、判断基準がある。
時には反発を招くだろうし、喜んでもらえることもあるだろう。

でも、その全てと距離を取って、自分なりの「考え」「思い」を“何か”に影響されることなく、バシッ!と書いていきたい。

それが、文章を書く人間、あるいは物語を作る人間のつとめだし、今回のように応援してくれる友達に対して出来る僕なりの最大限の感謝の示し方である。

そのためには僕の人生を捧げたとて、何一つ惜しくはない

キマった!

……と、深夜のやよい軒で「このブログの内容」を考えながら自分に酔いしれていたが、直後、事態が急展開の様相を呈することになる。

……ヤバイ。
僕の「スキャンダル」がバレた可能性がある!

ちなみに“女性関係”に関するスキャンダルだ。

はっきり言ってピンチである。

つい先程、

……その全てと距離を取って、自分なりの「考え」「思い」を“何か”に影響されることなく、バシッ!と書いていきたい。

と書いたが、一旦忘れていただきたい。

状況によっては、“何か”に影響されるがまま操り人形のごとく自己弁護する可能性も出てきた。
色々と見えない部分があるので、詳細はおって報告する。

兎にも角にも「スキャンダル」の匂いである。

【note】
深夜の東京で脚本を書く杉本達哉が、『アカデミー脚本賞』なる、現在地からどんでもなく遠いところにある「夢」を掴む為に奮闘する日々の記録。

杉本達哉の書斎

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