大切な人を想うとはどういうことか

今日は朝から不動産屋関係の申込用紙を書いたり、解約書類を書いたりと、それなりにバタバタしながら過ごした。年末ということもあり保証会社も休暇に入っているらしく審査は来年になるらしい。契約更新のタイミングの兼ね合いもあり、家賃のダブりが発生する可能性が出てきたので、新しい埼玉県のマンションの申込書を不動産屋へ送ると同時に、現在住んでいる東京のアパートの解約書類を管理会社へ送った。送った後に、「もしも審査に落ちたら?」という疑問が湧いた。その場合、アパートの解約は取り消せるのだろうか? 取り消せない場合、一時的に家が無くなる可能性もある。俗に言うホームレスだ。

今日の東京は風が強い。まるで台風が近づいているようなそんな気配すらある。空は快晴なのに雪のようなものが降っていた。なんとなく、何年経っても思い出す瞬間なんだろうな、と思った。そういえば、今日は友人Aが転勤のため東京を離れた日だ。このブログを書いているのが20時29分。今頃はすでに青森だろうか。寒いだろうな。でも温かい家族が一緒だから大丈夫か。うん、大丈夫。

連日続けている英語の音読を午前中は出来なかったので午後から行うことにした。来る日も来る日も同じ英文を5回音読する。時間にして25分程度だろうか。俳優のベネディクト・カンバーバッチが読む英文(手紙)に合わせ、声を出して真似をしてみる。毎日続けていると少しずつではあるが上達してくる、ような気がしている。それにしても、カンバーバッチの声が実に素敵だ。表情の一つ一つから細やかな感情が透けて見える。とはいえ、全てが見えることはない。本当に大切な部分は奥深くにそっと隠されている。そんな印象を受ける。「世界の第一線で活躍する俳優はやっぱり凄いな」なんて。凄くシンプルな感想だが本当にそう思う。この動画の存在を知ったのはまだ大阪に居た頃なので、今から2〜3年程前だろうか。偶然、YouTubeを観ている時に目に止まった。カンバーバッチが朗読している手紙は、1945年1月29日に書かれたものだ。今からおよそ74年前に、一人の男性から大切な女性に書かれた手紙である。英語だけで聴いているので内容の細部は間違っているかもしれないが、何となく僕が理解しているのは、男性は戦争に行っていて、自国が降伏したことによって大切な女性が待つ故郷に帰れることになったということ。そのことに対する想い、そして女性への想いが手紙に綴られている。自分ではない大切な誰かに向けて文章を書くということ、その行為について考えさせられる。自分のためではなく純粋に大切な人に向けて書かれた文章には、確かに筆者の息遣いが宿っているし、同時に美しい。文体や内容といったビジュアル的なものだけではなくリズムや空気感といった目に見えないものも含めて。無味乾燥な英文を読むのはつまらないが(僕の勉強不足でもある!)、こうした人の想いが詰まった言葉を読むのは本当に勉強になる。それは英語の勉強という語学の枠にとらわれたものではなく人間としての勉強でもある。

大切な人を想うとはどういうことか。死とは何か。時間を捧げるとはどういうことか。感情とは何か。自分とは何か。自分以外の存在とは何か。勿論、安易に答えを出すことには意味を感じないし、個人的にはそんなことはどうでもいい。考え続けること。これが最も大切だと思っている。そういう意味では、僕が書くこのブログは美しくないかもしれない。当たり前だ! 美しいわけがない。書き始めた頃とは随分考え方も変化してきたし、ブログのコンセプトも変わってきた。誰かのためというよりは自分のために書いている。勿論、今後変化する可能性はある。でも、今は自分のため、自分のために書いている。僕のような人間は、中途半端に「他人のために…」とか言って書き出しても多分あまり意味はないし、正直、他人のためにもならないだろう。であれば、徹底的に自分のために書いて、それがこの先、結果的に誰かの役に立って、「あー面白いな」と思ってもらえれば嬉しい。