不確実なこの世界で限りなく確実に近い事実

スマホにイヤホンを繋いで「雨の音」を聴きながらブログを書き始めた。特に理由はない。何となく聴きたい気分になった。なので、今日はパソコンで文章を書いている。雨の音は落ち着く。時折、遠くの方で雷鳴も聞こえる。机の背後、エアコンから聞こえる暖房の音が少しばかり気にはなるのだが、止めると寒いのでこのままにすることにする。熱帯地方の雨。そんな感じだろうか。舞台の台本を書いていた頃も、よくBGMとして音楽を聴いていた。歌詞があるものだと気が散って(曲に集中してしまって)書けないので、単純に音楽だけのものを聴く事が多い。より正確に言えば「環境音」に近い。今、聴いている「雨の音」なんかは、まさにその典型である。もちろん、無音状態で書くこともある。無音は無音で結構好きだ。

朝からずっと家に居る。出窓から差し込む光が部屋をほんのり照らしている。今、この瞬間までずっと曇りだと思い込んでいたが、どうやら晴れているようだ。パソコンを置いた机は壁にくっつけている。白い壁には無数の細かいスジが模様のようになっている。ずっと眺めていると迷路に見えて来る。恐ろしく入り組んだ迷路。永遠にゴールに辿り着く事のない迷路。昨日のブログでも書いたように引越しを検討しているものの未だに条件に見合う物件は見つかっていないし、おまけに年明けからの仕事も決まっていない。それらに対して焦る気持ちがゼロかと言えばそんなことはないのだが、焦ったところで仕方がないという事もどこかでわかっていて、やるべきことはやっているのだからあとはなるようになるという精神状態である。大丈夫、なんとかなるさ。

ここまで書き進めて、書いた文字をパソコンの画面でぼんやりと眺めながら「今日は何を書こうかな」と思案していた。書きたいことはいくつかある。だが書くべきことはあまりないような気がしていて、その中でも一つ書くべきことを見つけたので、今日はそのことについて書く。先日、ある人からこんなことを言われた。

「達哉のFacebookは、見てるとなんだか痛々しい気持ちになるからフォローを解除したよ」

そうか。ぼくは痛々しく見えているのか、とその時思った。正直、全く腹も立たなかったし、しいて言えば、その言葉を聞いて「あぁ、恥ずかしい」と思ってしまった自分自身に少しばかり腹が立っただけだ。「お前は恥ずかしいことをしているのか?」と改めて問うてみた。断じてノーなはずだ。だから自分に対して苛立った。もっと自分を大事にしてやれよと。ちなみに最近はFacebookも更新していないし、そもそも開いてもいない。他のSNS(インスタグラムなど)も同じ。更新しているのはこのブログだけで、これまで読んでいた他の人のブログも読まなくなった。

なぜ今日、この話題に触れようと思ったのか。それは先日も同じような言葉を別の人からもらったからだ。加えて、それをきっかけに過去の自分自身を振り返ることになったから。個人的には凄く大切な内容だと思っているので、ブログに自分の言葉として残しておくことにした。

この1年程の間、ぼくの中では試行錯誤の連続だった。毎日こうして文章を書く中で「どうしたら楽しんでもらえるだろうか?」と考えて、突拍子もないことを考えてみたり、ふざけた文章を書いてみたりもしたし、Facebookやインスタグラムを使って何か出来ないだろうかと考えたりもした。noteに文章を書いて有料販売に挑戦したり、ライブ配信をしたり。地元の数名の友人に対して「コラム」と称して300日連続で文章も書いたし、「ピロートークナイトニッポン」というネーミングとは裏腹にほとんど下ネタを喋らないラジオも130回収録した。これら全てがぼくにとって「挑戦」だった。現在進行形のものはほとんど無い。唯一、継続出来ているものと言えばこのブログぐらいなものだろうか。果たせていない約束もあるし、宙ぶらりんのままになっているものもある。なので偉そうには言えないが、間違いなく「葛藤」した日々だった。自分ではないもっと凄い誰かになりたくて、ただただ、もがいていたのだ。そんな中、先日このような言葉をもらった。「なんか、らしくなかったよな」「面白くなかった」と。

そもそも、「らしさ」とは何なのだろうか。この言葉の意味を正確に掴んでいる人が一体どれだけいるのだろうか。少なくともぼくはよくわからない。それなりに時間を費やして考えてみたつもりではあるけどうまく掴むことが出来ていない。言葉というのは難しいんだ。より正確な言葉で伝えようとすると本当に骨が折れる。唯一無二の正解なんてないのに、あたかもあるかのように話さなきゃならない。個人的にはそんなの真っ平御免だ。けれど、そうすると言葉としての表現がどんどん曖昧になる(ならざるを得ない)ので、「つまらない」と言われてしまう。これは正直、結構悩む。どう伝えればいいんだと。ぼく自身、変わった部分もあれば変わっていない部分もある。だが、特に根っこの部分に関しては一貫して変わっていないと思っている。これはほぼ間違いない。何も変わっていない。けれど、これまでやってこなかった何かをすると「変わった」「らしくない」「面白くない」と言われる事が増える。今回の「痛々しい」もその一つかもしれない。あくまで個人の感想だから全く問題ないんだけれど、「変わった」と言われると、ちょっぴり寂しくなる。単なる「挑戦」の一つに過ぎないじゃないかと。ちゃんとぼくを見てくれているのかと。この構造は一体どうなっているんだ?

けれど言う側の気持ちも正直に言えばわかる。数年前、友人が突如、自分の考えなどを動画で撮って配信し始めた。当時、それを観たぼくは「大丈夫かな?」と思った。「何かあったのかな」「変わっちゃったな」と。なぜなら全くそんなタイプの友達には見えなかったから。だが、今思うと何だか申し訳ないなと感じる。彼は別に変わっていなかったし、ただもがいていたのだ。日々と葛藤し、自分の理想とする自分に近づけぬ歯痒さと常に葛藤していたのだ。その方法の一つが「動画」で発信するということだったに過ぎない。ただ単に、そんなタイプの人間には見えない、という個人的な、ある意味で狭い価値観にぼく自身が縛られ、「あいつは変わった」というラクな表現で結論づけ、安心しようとした。そこにぼく自身の明確な考えや哲学は存在していない。ただ自分的に納得のいく答えが欲しい、ということでしかなかったような気がする。

ぼくは、指摘される側の気持ちも、指摘する側の気持ちも、多少わかっているつもりではいる。もちろん全てではないし、勘違いやら、わからないこともたくさんある。けれど、往往にして「何かをわかったようなつもり」になるのが人間であり、またぼくも同様である。これからも勘違いを繰り返すだろう。人間だから。己の狭い価値観、正義感に縛られながら、偏見という大海原に乗り出さなきゃいけない。それが人生だ。手元のコンパスさえ狂っているかもしれない。「本当にそうなのか?」「自分は間違っているかもしれない」という視点は失いたくない。だからこうして長々と文章に書いた。「痛々しい」かもしれないし、「らしくない」と思われるかもしれないし、「変わった」と思われるかもしれない。はたまた「どうでもいい!」と思われるかもしれない。でも、ぼくは何も変わっていない。不確実なこの世界で限りなく確実に近い事実はこれである。