上手く笑えなくても素敵に笑えれば

夕方、ふと歩きたくなって家を出た。気付くか気付かないかぐらいの微かな小雨が降っている。本格的に降りそうな気配はなかったので、そのまま傘を持たずに歩くことにした。踏切を越えて北に向かって歩く。緩やかな坂道がずっと先まで続いていて、道の両脇には飲食店やカフェ、美容室など、様々なお店が並んでいる。普段、日常生活を送る上で北側を歩くことはほとんどない。JRの駅が自宅から向かって南側にあるので、基本的にはそちら側ばかりだ。買い物に行くのも、食事をするのも、散歩に出かけるのも南側ばかり。上京して2年が経とうとしているけれど、僕の記憶が正しければたぶん北側を歩いたのは4、5回ほどだと思う。もちろん、ちょこっと歩くことはあっても坂道を登って奥まで進むことはほとんどない。夏祭りの日に見た夕日が美しくて、より見える場所を探して歩いたのが一回、体調を崩して病院に行ったのが一回、あとは周囲を探検したくなって数回、そんなところだ。特に行きつけの飲食店があるわけでもないし、友達が住んでいるわけでもない。でも、一軒だけ、これまで2、3度足を運んだお店がある。夕方、なんだかそこに行きたくなった。そのお店は、坂道を登って10分ほど歩いた場所にあって、70歳前後のおじいさんとおばあさんで切り盛りをしている。何屋さんなのだろうか、和菓子屋さんっぽくもあるけれど、正確にはよくわからない。お店には色々な商品が並んでいる。僕はそのお店に寄ると「たい焼き」を買う。初めて買ったのは上京した年の夏。近くの神社で開催された祭りの日だったような気がする。去年の春にも一度買った。今日が3回目だろうか。昼間にどら焼きを食べていたので、あんこではなく、クリーム味を一つ買った。熱々のたい焼きも美味しいけれど、皮がフワフワしていて、ほんのりあたたかいぐらいの温度感で提供してくれるこのお店のたい焼きも美味しい。それにしても、おじいさんとおばあさんの笑顔が素敵だ。多くを語り合うわけじゃないし、交わす言葉といえば、「こんちは」と「たい焼きください」ぐらいのものだけれど、その一瞬にさえ、癒される。優しい、優しい二人の笑顔が素敵だ。どう生きればあんなに素敵な笑顔になれるのだろうか。僕は常連客じゃないし、二人はきっと僕のことは覚えていないだろうと思う。でも、僕は覚えている。忘れることは出来ない。あれほど素敵な笑顔を見せられたら。ニコニコ、ニコニコ。お互いを思いやり、お客さんを思いやり、大切に大切に人生を生きてきたんだろうな、と。上手く笑える人は増えたけれど、素敵に、本当に素敵に笑える人はそう多くない。

あと2週間程で東京を離れ、埼玉県へと引越す。それまでにもう一度、二人のお店の「たい焼き」を食べたくなった。だから、今日、歩いた。

たい焼きを食べ終えた後は、登ってきた坂道を下る。途中、半開きになったお店の中から外へと一本のリードが伸びていて、その先、白い犬が坂道で伏せをして休んでいた。そっと近付くと犬が僕を一瞥する。怖がる様子もなかったので、しゃがんで手を差し出した。しばらく匂いを嗅いで安心したのか、撫でさせてくれる。犬はテンションが上がるわけでもなく、かといって嫌がるわけでもなく、身体は冷たくて、どこか遠くをボーッと見ていた。しばらくすると背後から声がした。自転車に乗った飼い主さんが帰ってきたのだ。一瞬、怒られるかな、と思ったけれど、「良かったな、可愛がってもらえて」と笑顔でお店へと入って行った。ホッと胸をなでおろす僕をよそに、犬は喜んでお店の中へと入っていった。ニコニコ、ニコニコ。いつの間にか、小雨がやんでいた。