ガッツリと日記に力を入れてみた

日記について。

ここ3日間ほど日課として続けている日記にガッツリと力を入れてみた。もうすぐ書き始めて4年が経つ。凡ミスが無い限り一日たりとも飛ばしていない。このブログが1年4ヶ月ぐらいなので、そう考えるとそれなりに長いなと感じる。おまけに手書きである。これが結構大変なのだ。

ガッツリと力を入れてみた。

この事について少しだけ語りたい。読んで字のごとく、真剣に書いた。「では、いつもは真剣じゃないのか?」と問われると、悔しいが胸を張って答える事は出来ない。手を抜く日もある。怠惰以外、何ものでもない。そう自覚していても毎日だ。酔っ払っていようが、眠かろうが、毎日書かなきゃならない。わかっている。自分で決めた事だ。書きたいよ。書きたいさ。でも、それと、絶対に手を抜かないか、は別問題だ。分量は一日一ページ。A4サイズである。箇条書きっぽく出来事を並べたり、幼い頃に書いた拙い文章っぽくなったりすることもある。要するに手を抜いているのだ。けれど、なるべく手を抜きたくないと思っているのも事実だ。矛盾した言い方に聞こえるかもしれないし、甘いと感じるかもしれないが、人知れず毎日自分と対峙している。自分の感じている事を上手く的確な言葉に置き換える事が出来ない時のもどかしさ。その時に辞書を引っ張り出し、納得がいくまで必死に言葉を探しているか、言葉と格闘しているか。いや、出来ていない。なんとなく似た言葉で代用したり、フワッとさせたり。そんな事は日常茶飯事だ。

「それで良いのか?」と問いかけた。

このブログと違って僕以外、誰一人として読む事はない。どれだけ手を抜こうが直接的に誰かに迷惑をかける事もない。じゃあ別に良いんじゃないだろうか?そもそも消えゆく記憶を繋ぎとめておく為に書き始めたようなものだ。であれば、別に出来事を箇条書きに、なおかつ機械的にまとめておくだけでも充分なのではないか。そんな風に考え始めた自分が居た。

確かにそうなのかもしれない。時間は有限なのだ。脚本だって映画だってバイトだって睡眠だってある。日記だけ書いていれば良い訳じゃないし、ある程度の雰囲気で書けば、他のことに時間を使った方が良いのかもしれない。その方が人生という大きな括りで捉えれば充実度は高いかもしれない。ある意味では合理的かもしれない。「かもしれない」のループが止まらない。

だが、結論としては、それだと楽しくなくなるだろうなと思った。どこかで書くのを辞めてしまうかもしれない。「絶対」という言葉はあまり好きじゃない僕が日記に関しては「絶対に辞めない!」と言い切っているので、おそらく辞めることは無いが、であれば、「楽しくないなぁ」と思いながらこれから先、ずっと書き続ける事になる。それは嫌だ。

年齢を重ねて、いい感じのお爺さんになった時に、数十年書き溜めた日記をワインでも飲みながらゆっくり読み返したい。全ての日を。若かりし28歳からの全ての日を。だから書いているというのもある。その時に、箇条書きで、なおかつ適当に書いた日記を読み返したいだろうか?いや、答えはノーだ。そんなものにはあまり意味を感じない。であれば、やっぱり、当時の記憶が蘇るように書きたいし、読んだ時にかつて自分が歩んだ人生をもう一度なぞりながら再体験したい。二度と戻れぬ日々に思いを馳せたい。生まれた事に、生き続けた事に感謝したい。人生の本質にほんの少し触れて、自分なりの解釈を持ちたい。そして最後にはほんの少し寂しさを感じたい。いつか人生は終わるという寂しさ。

その為に、どうしなくてはいけないか。

日記をちゃんと書く。それしかない。そう思った。日々の出来事に加えて、自分が感じた事や、「書き残しておきたい」と感じた事もなるべく書く。手を動かす。「サボるな、書け」そう自分のケツを蹴るしかない。それでも手を抜く日は来る。一ヶ月後、三年後、十年後、五十年後、生きている限り毎日書くのだから、必ずサボるし、手を抜く。でも、その度にちゃんと軌道修正しなくてはならない。怖い。もちろん。だって、終わりがないから。永遠に書くから。

その第一歩として、3日ほど前からガッツリ力を入れて書き始めた。どこまで出来るか。しんどいだろうな。怖いな。でも、その分、読み返した時は面白いだろうな。なるべく手を抜かずに、しんどい、怖い思いをして、後で楽しみながら笑えればいいな。長生きしなきゃな。さてと、今日もしっかり書くぞ。