【連載小説】東京夜 第二回

あかりのホテル

1、
時々、自分のことがわからなくなる。

私は誰で、何をしようとしているのか。
普段、クリアに見えている景色が突如ぼやけてしまって上手く距離がつかめなくなる。
周りとの距離もそうだし、自分との距離もそう。
すぐに元に戻ることを期待しすぎると、期待を裏切られた時にイライラしてしまうから必要以上に期待しないことにしている。
未来なんて所詮誰にもわからない。

中沢あかりは都内のシティホテルの一室にいた。
カーテンを開け放ち、窓の向こうに広がる東京をぼんやり眺めている。明滅する大小様々な光が点在する世界。
そうだ、私は世界で生きているんだ。
遠く離れ、なおかつ透明のガラスを間に挟むと、そこに人の温もりは感じなくて、上空から何かのシュミレーションを見せられているような気がしてくる。無秩序に動く光の粒に秩序を見出そうとしてみる。かくれんぼを俯瞰で見ているような、そんな感じもする。
私は隠れている方なのか、それとも鬼の方なのか。
そういえば、昔、かくれんぼの途中で友達を残したまま帰ってしまう友達がいた。
いつも個人行動で、飽きると周囲のことなんておかまいなし。勝手に帰ってしまう。周りの友達は、そんな彼女のことを嫌っていたけど、私はそれほど嫌いじゃなかった。むしろどちらかと言えば結構好きだった。
人は簡単に他人を嫌いになるし、時として攻撃したりもする。
ほんの些細な、どうでもいいような内容で関係に亀裂が入るし、往々にして、皆んな自分は間違っていないと思い込んでいる。
どうしよう。どうしてもその帰ってしまう友達の名前が思い出せない。かつて一緒に遊んだ友達の名前が…。
気付けば、今年で36歳になった。
若い頃はあっという間と、昔からよく大人達が口にするのを聞いていたし、たしかにそうかもしれないとは思うけれど、よくよく思い返すと私の20代はそれなりに長かったように思う。そう、たしかに長かった。
これまで何人かの男性と付き合ってきたし、一度、真剣に結婚を考えたこともある。
その人は年上の優しい男性で、一緒にいるといつも心が安らいだけれど、どこかで、この人はずっと私の側にいてくれる人じゃない、と思っていた。
何か明確な理由やキッカケがあってそう感じたわけじゃない。曖昧な感覚として、ずっと私の周囲に漂い続けていた予感。
結果的にその予感は的中することになった。
3年間付き合った日々の記憶、重みが、まるでそもそも存在しなかったかのように、私より若い女と身体を重ね、手を取り合ってどこかへ消えてしまった。
もちろんそれによって傷つきはしたし、彼がいなくなってしまったことでできた空白を何かで埋めたいと思ったけれど、私は適当にその辺の男と寝るほど愚かじゃないし、またそんなタイプでもない。
どこから聞きつけたのか、普段あまり連絡をよこさない友達から「きいたよ、大変だったね」なんて連絡が来て、結果的に相談させられる羽目になったりしたこともあった。
その都度、返ってくる言葉はだいたい同じで、「いいじゃんそんな奴。あかりならもっといい人に出会えるって」といった類のものばかり。一体、何を根拠に言ってるの、と何度訊いてみようと思ったことか。
でも、訊いてない。
訊いたことろで納得がいく答えなんて返ってくるはずがない。
この世界の誰かの言葉をただなぞっているに過ぎないのに、その自覚をほんの少しも持ち合わせていない厚かましさ。
正直、友達に対して失望さえした。
通り一辺倒な安易で浅い言葉の数々に、あなたは平凡な女なんだから、と言われているような気がした。
たしかに平凡かもしれないけど、あなたとは違う、と心の中でそっと毒づいた。
次第に独りでいることを好むようになった。
独りでいれば誰にも失望しないで済むし、それによって自分を嫌いにならずに済む。
誰かを無意識に攻撃した後に残る嫌な後味は感じなくて済む。自分の身は自分で守らなきゃいけない。独りは気楽でいい。
今思い返すと、きっとあの失恋は経験して良かったんだと思う。結果的にこれまで以上に仕事に打ち込めるようになったし、それによって同僚から慕われ始め、上司から頼られるようになった。
もちろん、だからといって彼らとの距離感は間違えない。
週末の飲み会には参加しないし、休日にプライベートで会うこともない。ここを間違えると気付かない間にどこか目に見えない部分がほつれ始め、やがて大きな穴があく可能性があることを私は知っている。
そんな過ちは二度と繰り返したくない。繰り返すぐらいなら、二度と恋愛なんてしなくてもいいとさえ思っている。
当然ながら、そう思えるまでには長い時間がかかったし、自分の内側に存在する混沌とした視点を整理するために眠れぬ夜を何度も何度も過ごしてきた。
よく女の恋は「上書き保存」なんて聞く。
誰が言い出したのかは知らないけれど、ハッキリ言って女という言葉で一括りにしないで欲しい。世の中にどんな傾向や統計があるにせよ人を性別を軸に括るのは馬鹿げてる。
少なくとも私は違う。
上書き保存なんて愚かな真似はしない。
たとえ今が幸せでも私の全てをその瞬間に捧げることは絶対にしない。それは過去をある種否定することにもなる。

……まただ、またいつもの結論に着地した。
最終的にはいつも過去という一つの言葉に辿り着く。これまで何度も経験してきた。
最初こそ気付かなかったけれど、ある時ふと、まるで前もってこの日だと決められていたかのように悟った。
私にとって過去という概念は大きな意味を持っている、と。

それにしても昔と比べると随分考える時間が増えたような気がする。
意識的にしろ無意識的にしろ暇さえあれば思考や空想をここではないどこかへ飛ばしている。
不思議と不安はない。
飛ばしたそれらは、しばらくするとまた私のところに戻ってくる、そう知っていたから。
この性格は一体誰に似たんだろうか。
両親? 
いや、違う。二人は私みたいなタイプじゃない。
友達だろうか。
今となってはほとんど名前を思い出せない友達たち……。  

あかりは、今夜を東京で過ごす最後の夜にしようと決めていた。
上京してからもう何年になるだろう、と考える。
当時、あれほど輝いて見えた夜の東京が今では日常になった。ワクワクと高鳴っていた胸はどこか冷たく、それでいて少し重たくなったような気がする。
得体が知れず、どこか吸い込まれそうに感じていた街は、結局のところただの街に過ぎなかった。行き交う人々の人生の数が多い街ということに過ぎない。それ以外は何も変わらない。特別なんかじゃない。
こうして高い場所から見下ろしてみるとそれは顕著だ。
偉そうに聞こえるかもしれないし、たかだか30数年生きたぐらいで何がわかる、と思われるかもしれないけれど、私は私の思ったことをそのままなるべく正直に伝えたい。たとえそれが誰かを傷つけたり不快にさせる結果になったとしても。
所詮、あらゆることは刹那的な出来事に過ぎないんだから。
何かのキッカケで私とあなたが出会っても、あなたは私を忘れるし、私も同じ。すぐには無理かもしれないけれど、100年も経てばお互い消えている。
誰も私たちのことなんて覚えていない。
素敵じゃないか。

東京に残してきたものは何もない。
午前中に自宅マンションも解約したので戻る場所もない。公共料金だってちゃんと解約の手続きを終えた。電話で対応してくれたセンターのおばさんの対応に少しばかりイライラしたけど、心は今日のことを考えていた。
これからどこへ行こうか。
どこへでもいける。
この街に未練はないし感傷的になったりもしない。もう決めたことだ。
明確な目的地は決まっていないけれど、はっきりしているのは、今日が東京で過ごす最後の夜になるということ。

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