【連載小説】東京夜 第三回

田本の部屋

2、
なぜだろう、眠れない。

しばらくウトウトしたような気もするが、さっき横になってからほとんど時間が経っていない。5連勤を終えた金曜日の深夜。身体はそれなりに疲れているはずなのに、上手く寝付くことが出来ない。
書けもしない小説に1時間向き合ったからか。
仕方なく部屋の電気を消してみることにした。まだ冬だ、虫はやってこない。そう自分に言い聞かせ、壁のスイッチを鳴らした。

殺風景な部屋に似合わぬ出窓からは、向かいのアパートの光が見える。
廊下の蛍光灯の微かにグリーンを含んだ白。暗闇では濁った白でさえやけに明るく見える。
向かいのアパートと僕が住むこのアパートは、ほぼ同じ形をしている。まるで同じタイミングで生まれた双子のようだ。築年数も同じぐらい。不動産屋で説明を受けた時は、30数年、と聞いたような気がする。
つまり僕より年上ということになる。

最初、内見で不動産屋の担当者に連れて来られた時、どちらの物件かわからなかった。案内時に見た外観写真の記憶だけで判断するにはあまりにも似すぎていたのだ。
僕の戸惑いを見透かしたように、担当者は「こちらです」と、右のアパートを指した。ほんの少し小綺麗な印象のアパートだった。
普段からよく向かいのアパートの周辺にはゴミが置きっ放しになっている。分別せずに放置し、回収を拒否されたのだろう。透明ではなく乳白色の中身が見えないゴミ袋が何重にも重ねられている。最初は抵抗があったけれど、いつしか見慣れた光景になった。薄い乳白色を重ねた白は、曇った空と同じ色に見えた。そう、たしかに同じだった。

不動産屋の担当者の案内に迷いは感じなかった。これまで何度かこの部屋を案内する機会があったのかもしれない。だとすると、なぜその時案内された人はこの部屋に住まなかったのだろうか、という疑問が湧いてくる。気に入らなかったのか。あるいは何か別の理由があったのか。
ふと、苦笑している自分に気が付いた。今更、そんなことを考えてどうなるのか。
この部屋に住むかどうか、それが大事で、それを選ぶのは自分なのだ。別の誰かじゃない。
それに今更そんなことを考えたところで答えはわからない。考えるだけ無駄だ。
つくづく思う。考えても仕方のないことをあれこれ考えすぎる。昔からのクセで無意識に思考が走り始める。ひとりでに、まるで摩擦が存在しないかのように、ツーっと。
不確かな世の中で大切なのは事実なんかじゃない。
解釈だ。物事の解釈。

担当者は僕が部屋を見ている間、「ちょっと電話してきます」と言い残し部屋を出て行った。
ひとり、ひっそりとしたこの部屋の空気を感じた時、この家に住もう、と決めた。
静かな午後だった。
雪が降る音さえ聞こえそうな静かな午後……。

内見の日、東京に大雪が降った。
午前中、不動産屋で条件に見合った部屋を相談している時に、ふと入口を見ると、強い横風に乗って雪が吹き付けていた。舞うなんて可愛い感じじゃない。
タイミングが良かった、と思った。
もう少しでこの大雪の中を歩く羽目になっていた。

数時間前、朝の6時半に夜行バスが池袋に着いた。
降りてすぐマクドナルドが見えた。店内でホットコーヒーを啜る。しばらく身体を温めた後、山手線で新宿まで出て、新宿からここまで歩いてきた。新宿には多少土地勘があったし、夜通しずっと狭いバスだったこともあり、運動を兼ねて歩きたくなった。

周囲に人が居ないことを確かめ声を出して、伸びる。唸るような低いうめき声が漏れた。
この時、声を出すのがポイントで、体内の疲労や邪気が放出される感じが心地いい。
続いて深くゆっくりと息を吸い込む。冷たい空気が肺の中に充満するのがわかる。
新宿から5キロほど歩いた。歩くことは苦にならない。
寒い日には寒い日なりの、暑い日には暑い日なりの歩き方を心得ているつもりだ。歩くことで思考の中に空白が生まれ、その空いたスペースに別の何かを収めることが出来るような気がする。想像することは、今この瞬間を離れることだ。
何かを想像している時、その瞬間、意識はここにない。もちろん、身体はある。この、ここに居ながらここに居ないというある種の矛盾を含んだ感覚に惹かれている自分がいる。真面目なことを考えることもあれば、過去の記憶を引っ張り出してみたりすることもある。あるいはくだらない内容にぼんやり思いを巡らせることもある……。

大丈夫かな、という心配をよそにみるみる雪が積もっていく。
店内から見えるバス停はまるで別世界で、普段、雪に慣れていない人達が戸惑っているように見えた。
「これじゃ、車は出せないっすね」
悪びれる様子もなく不動産屋の担当者がそう口にした。この男と車内で二人になりたくないと思った。

結局、しばらく様子を見たものの一向にやむ気配はなくて、担当者と一緒に都営バスに乗ることになった。
15分ばかりの徐行運転の後、どこかのバス停で降りた。そこからは徒歩。
今となっては、この時、どこのバス停で降りたのかを思い出すことは出来ない。なぜだろう、時々、無性に思い出したい衝動にかられることがある。だが、ただでさえ大雪で視界も悪く、おまけに初めて来た場所だったので、このまま永遠に思い出せそうにない。これも考えるだけ無駄というやつだ。

人気のない商店街を男二人、雪を鳴らしながら歩いた。
しばらくして、不動産屋は、毎日の仕事の話や、近い将来独立を考えていること、そしてその目標に向かって思うように努力出来ていない自分について語り始めた。
不思議と嫌な気はしなかった。案外、悪い人じゃないのかもしれない。そう思い始めた。
夢なんて誰でも語れるし、綺麗事も言える。でも彼は、自分の弱さについて語った。今日出会ったばかりの、ただの客でしかない僕に対して。彼の人間性を垣間見たような気がして、ほんの少し嬉しくなった。

「どうして中野なんですか?」
「え?」
「随分こだわってらっしゃったから。他にも良い街はありますよ」

そう言って彼は微笑んだ。
たしかに、どうして中野だったのか。
今でもその理由をうまく言葉にすることはできない。
新宿から近くて交通のアクセスも良いけど、もちろんそんなことが理由じゃない。
正直、直感としか言えない。

「直感ですか?」

僕は見透かされているような気がした。

「いいと思いますよ」
「ですかね?」
「なんでも言葉にする人間は信用できません」

僕は、ええ、と答えた。

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