【連載小説】東京夜 第一回

田本の部屋

1、
小説を書いてみたい。

数日前、何の前触れもなく、ふとそう思った。
なぜ、そんな衝動が現れたのか。正直、よくわからない。
ただ、書いてみたい。そう感じたのだ。

比較的、フットワークは軽い方だと思う。
出来る出来ないは別にして、やりたいと思ったことは、これまでも手をつけてきた。
写真を撮りたい、と思えば一眼レフを買ったし、映画を撮りたい、と思えば映画の専門学校にも行った。
20代も半ばに差し掛かろうというタイミングでだ。
周りの友達は就職し、結婚し、新しい家庭を持ち始めていた。
安定とは程遠い、曖昧で、混沌とした世界に足を踏み入れた。
不安がなかったと言えば嘘になる。
でも、その不安すら人生を彩る要素の一つに過ぎない。そう思っていた。
定職にもつかず、世間的に見ればフラフラしていたのだろう。
だが、定職につく理由も特に見当たらなかったのだ。

六畳ほどの殺風景なワンルーム。
背もたれがゆるんだ椅子にあぐらをかき、田本悠哉はぼんやりと机のノートパソコンを眺めている。
視線の先、パソコンの画面には数行の文字が並ぶ。
数日前、突如湧き上がってきた「小説を書いてみたい」という衝動を形にするべく、とりあえず何か書いてみるか、と軽い気持ちでパソコンに向かったものの、いきなり何を書くべきか、いや、何を書けばいいかわからなくなった。
もちろん、だからといって特にヘコむ必要はない。
そんなことは自分でもよくわかっている。
書けない、なんてことは端からわかっていたはずだ。
そもそも、これまでまともに小説……いや、文章すら書いたことがない。
書けなくて当然なのだ。
世の中の小説家と呼ばれている人達は、一体どのように小説を書いているのかと想いを巡らせてみるものの、散々考えた挙句、わからない、という誰もが着地しそうな結論が出た。
気楽に、思うがまま何でも書けばいいんだ。
頭ではそう思っていても、なかなか思うように指が動かない。
キーボードを押せば嫌でも画面に文字が出る。
ただ押すだけだ。
まったく、芥川賞や直木賞でも獲るつもりなのだろうか。
誰もお前が書いた小説なんて読まない。
だからとりあえず書け。何でもいい。あれこれ考えずに、とにかく書くんだ。
そう自分に言い聞かせる。
しばらく思案した後、田本はそれまで書いた文章を全て消して、新たな一行目を書いた。

小説を書いてみたい、と。

バカげているだろう? 
そう、実にバカげている。

時刻は午前3時を少し回った。
今夜の東京は随分冷え込んでいる。
昼間は比較的暖かかったのだが、夕方頃から急激に冷え込み始めた。
田本は椅子に座ったまま手を伸ばし、壁のリモコンを手に取る。
暖房は23度に設定してある。2度ほど上げようか、と思ったが、少し考えてやめた。
あまり室温を上げると頭痛がする。
田本が住んでいるワンルームは、築30年をこえたアパートの一階で、都内三区を流れる河川沿いの道から数メートル住宅街へ入った場所にある。
一応、閑静な住宅街の部類に入るのだろう。
引っ越してきてもうすぐ二年になるが、未だ事件や揉め事の類には遭遇していない。
周囲には、低層アパートや一軒家が数多く建ち並んでいる。
所々、真新しい家が建っていたりもするが、どちらかと言えば年季が入った家が多い。
昔から住んでいる人達が多いのだろう。
都心に程近い場所ながら、あまり都心感がない、そんな場所だ。

何に焦っているのだろうか?
一向に進まぬ小説を前に、田本は自分が対峙している「何か」を測りかねていた。
焦る、という言葉さえ、どこか正確さを欠いている。
そんな気がしてならない。
不安なのかもしれない。まだ不安の方がニュアンスとして近い。
でも、一体何が不安なんだ? 
とにかく消しちゃ駄目だ。
書いては消してを繰り返していては永遠に先へと進まないし、先へ進まない限り終わりまで辿り着けない。
とにかく書く。書いて書いて書き続ける。
読み返してみて、自分の文章に辟易したとしても、とにかく、とにかく書き続ける。
焦りや不安なんてものは一旦脇に置いて、文章を、言葉を、文字を、ただ積み重ねることだけに集中するんだ。
それしか道はない。
田本は再びパソコンに向かった。
考えは何もまとまっていないし、特に魅力的な登場人物や物語が思い浮かんだわけじゃない。
でも、よくよく考えると、そんなことは当たり前だ。
そんな簡単にスラスラ書けるなら小説家なんて必要ない。
よし、こうなりゃ時間を決めて書こう。
ダラダラ書いても仕方ない。
締め切りがあるわけじゃないんだ。誰かに依頼されて書いている訳じゃない。
自分が勝手に書き始めて勝手に苦しんでいるだけじゃないか。

一日一時間、毎日書く。
田本はこのシンプルなルールを唯一にして絶対のルールとすることにした。
たとえ一文字も書けなかろうが毎日一時間は机に向かう。
何があっても。これは絶対だ。
執筆を阻む全ての理由、事情は言い訳と見なすことにする。
例外なく、全てである。
この小説の全体像は何も決まっていないし、どれほどの長さになるのか、正直、見当もつかない。
サクッと読める短編ほどの長さになるかもしれないし、一般的な長編小説と同じぐらいの長さになるかもしれない。
根拠はないが、今のところ後者のような気がしている。
そういえば、今夜は2時頃から書き始めてたっけ、と田本は思った。
まだ、ほとんど何も書けていないとはいえ、すでに1時間が経った。
唯一にして絶対のルール、一日一時間はクリアした。
小説の執筆は長丁場だ。
書いたことはないが、そうに違いない。
きっとそうだ。
初日から無理をしても意味がない。
今日はここまでにしよう。
田本はノートパソコンを広げたまま、床に敷いた寝袋に横になった。
部屋の電気は消さない。
電気を消すと、暖房であたたまった暗闇で虫達がうごめきそうな、そんな気がするのだ。
このアパートに住んでからずっと電気をつけたまま眠っている。
そっと目を閉じる。
ほとんど真っ白なページの隅に申し訳なさそうに並んだ文字が脳裏に浮かんでくる。
俺は何をしようとしているんだ? 
なぜ、小説なんて書こうとしているんだ? 
そう自分自身に問いかけてみる。
答えはない。
部屋には暖房の気怠い音が響いている。