「理解したい」という気持ち

字幕を付けず、英語のみで映画や海外ドラマを観るようになって数ヶ月が経つ。正確にはわからないが、たぶんそれぐらいだと思う。「英語という言語への理解が深まったのか?」と問われると疑問ではあるが少なくとも抵抗は無くなってきた。というか、元々あまり無い。よくわからないけど嫌いじゃないという状態。不思議なもので、ずっと英語だけで観ていると、なんとなく理解できてくる。勿論、勘違いの可能性もある。でもそれでもいい。たとえ勘違いであっても進歩している。そう感じるのだ。

それに加えて、もう一つ発見があった。日本語の字幕をつけて鑑賞していた頃は、会話の内容を追うのに必死で、画面全体を見ているようで、実は字幕部分を主に見ていた。言い換えるなら、画面そのものは「なんとなくみている」という状態。これは字幕を付けずに鑑賞すると明らかに感じる。何度も繰り返し観た映画であっても「あれ、こんな場面あったっけ?」であったり、「この場面、この人はこんな表情をしてたんだ!」と発見する。字幕が無いので、日本の映画やドラマを観る時と同様、画面そのものを見ているのだ。この発見は結構楽しいし、新鮮でもある。でもよくよく考えると、本来はそういうものだ。

今は英単語や、文法などは全く勉強していない。あくまで映画や海外ドラマを観る時に字幕を付けずに観ているだけだ。勉強とは面白いもので、理解が深まるにつれてもっと勉強したくなる。「理解したい」という欲が内側から湧き上がるのを感じる。昔は嫌いだった勉強が、年齢を重ねるにつれて楽しくなってくる。シンプルに楽しいのだ。今後は、もう少し英語に触れる時間を増やしていく。「英語を使えた方が得だ」とか「グローバル社会を乗り切るためには英語は…」なんて考えている訳ではない。むしろそんなことはどうでも良いと感じていて、単純に「理解したい」という気持ちを大切にしたいし、するつもり。

大人になると色々と考える。それ自体、別に悪いことではないが、どこかで「これは自分にとってメリットがあるのか?」という判断基準に従って行動することが増える。「時間は有限である」という揺るぎない事実のもと、今日があって明日があるのだから、ある意味では合理的なのかもしれないが、もっと情緒的な部分にフォーカスしていく必要があるように感じる。理由を訊かれても上手く答えられるかどうかわからない。ただ、そう感じるし、そうである部分を忘れず、大切にしたいと感じているのだ。

何やら長々と書いている。最近のブログは文章ばかりで写真も全然使っていない。読んでくれている人がどれだけ居るのか。正直わからない。時々、「書いている内容がわからない」「要するに何が言いたいの?」という意見を頂戴することがある。僕自信も探っているのだ。いつもいつも明確に自分の考えや意見が確立されている訳ではない。勿論、「〇〇だと思う!」と主張することもあるが、自分の内側にある曖昧な対象に向かって、書きながら思案し、考えを整理していることもある。本来なら、もっとわかりやすく、身近な出来事を面白おかしく書いた方が読んでくれる人は増えるかもしれない。書き始めた頃は、ふざけた内容を書いてみたり、突拍子もないことを書いてみたりしたこともある。その都度PV数(どれぐらい閲覧されているのかというデータ)を見て一喜一憂したりしていた。

でも疲れた。ただ上部を飾ることばかりに意識が向いて本質的な部分は一向に深まらない。「知るか」と思われるかもしれないが、僕にとっては大問題なのだ。勿論、今後また時々ふざけてみたり、軽い内容をサクッと書いたりすることもあるかもしれない。「二度と書かない」とは断言出来ない。けれど当分はこんな感じで書いていく。「営業マンが数字にこだわるように、僕はブログのPV数にこだわる!」と、その昔、書いた記憶があるが撤回する。散々使い古されたその言葉は本質を突いているのかもしれないが、今の僕にとってはどうでもいい。PV数にこだわるなら、こんな意味不明な文章を長々と書いたりしない。

ずっと読んでくれている人は、読みにくかったり面白くなかったら申し訳ない。でも僕は僕の直感に従って、情緒的な部分を大切にしながら今後も書いていく。暇な人、「嫌いじゃないよ」って人はお付き合いください。