「写真」について

昨夜、スマホの中に大量にある写真を見た。東京に出てきて1年9ヶ月の間に撮りためた写真。思っていたよりたくさんあった。存在すら忘れていた写真で、懐かしい記憶が蘇る。記憶をつなぎとめておくものとしての写真。そんなことに想いを馳せてみる。

その中で「撮りたい」と思って撮った写真はほとんど無い。ただなんとなく撮ったものやSNSに投稿するために撮ったものばかり。それはそれで悪くない。けれど僕の中には虚しさが残った。

先日。新宿に一人の女の子。晴れた朝。カフェで買ったであろうお洒落なカップを朝日にかざして写真を撮っている。微妙に角度を変えながら光の感じを、写り映えを探っているのだろう。今時、よく見る光景のひとつなのかもしれない。特に不思議でもない。

でも、思う。その女の子は、その飲み物の味を覚えているのだろうか。味わったのだろうか。本当に自分が飲みたい飲み物だったのだろうか。自分が生きていて、清々しく、朝日が美しい朝に自分の時間があるということを、その幸せを感じているのだろうかと。

「写真」ってそもそも何なのか。人はなぜ写真を撮るのか。考えれば考えるほどわからなくなる。別に考えなくても良いのかもしれないし、考えなくても生きていける。時代に合わせて、その時代の流行に乗って、なんとやくそれなりに楽しく生きていくこともできる。否定も肯定もしない。でも、僕は何だか嫌になってきた。適当に写真を撮ることを、何も考えずにただ何となく写真を撮ることを。僕のスマホに残っている写真は、そんな写真ばかりだ。そこには自分が投影されている。考えているようで、何も考えていないのかも、何も考えていなかったのかもしれない。ただ単に周りの目を気にしていたのかもしれない。時代に取り残されるのかもしれないという不安があったのかもしれない。モノを作る人間として、周りの友人に何かをアピールしないといけないと思い込んでいたのかもしれない。その根底には何があるのか。「恐怖」だ。取り残されるかもしれないという恐怖。裏返せば、自信のなさでもある。なぜ自信がないのか。「これ以上、出来ない」という程、努力できていないという事実を自分で自覚しているから。要するに上部を飾っているということで、どこかでこの連鎖をとめないと永遠に「恐怖」に苛まれる可能性があるということ。

ちなみに、すべての人に当てはまる話でも考え方でもない。あくまで僕の場合はということ。そんなお話。